海を抱える鎌倉市の議員として津波対策は急務だと考えております。報道では東日本大震災において各地の堤防が破られハードでは大津波に対抗できないのではと考え、防災教育の徹底しかないものと思っておりました。
しかし、岩手県の普代村(http://www.vill.fudai.iwate.jp/)では「巨大防波堤で死者ゼロ」という記事を見てネットで色々と調べておりました。
まずは、新聞記事を引用いたします。
以下、引用開始
巨大防波堤で死者ゼロ 岩手県普代村 村長の信念と消防士の献身が結実 2011.4.26 産経新聞
東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸にあって、岩手県普(ふ)代(だい)村は死者ゼロ、行方不明者1人にとどまった。被害を食い止めたのは、かつて猛反対を受けながらも村長が造った高さ15・5メートルの防潮堤と水門。そして震災当日の消防士の献身的な行動だった。
普代村は明治29年と昭和8年の大津波で計439人の犠牲者を出した。
昭和40~50年代に普代村の村長を務めた故・和村幸得さんは防災対策に力を入れ、同43年、漁港と集落の間に防潮堤を、同59年には村を流れる普代川の河口から600メートルの場所に水門を完成させた。
2つの工事の総工費は約36億円。人口約3千人の村には巨額の出費で、15メートルを超える高さの必要性が疑問視されたが、和村さんは「明治29年の大津波は高さ15メートルあった」という言い伝えに基づき、譲らなかったという。
しかし防潮堤と水門だけでは村人を救うことはできなかった。3月11日、地震と同時に水門脇のゲートの自動開閉装置が緊急停止したのだ。ゲートが開いたままだと、川を逆流してきた津波が村の中心部をのみ込んでしまう。
久慈消防署普代分署の副分署長を務める立臼勝さん(50)ら消防士3人は、地震発生直後、 大津波警報の出る中、ゲートに向かった。故障したゲートを閉めるには水門の機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。津波の危機感はあったが、「まさ か、あれほど大きな津波がくるとは思っていなかった」。
3人は機械室に到着するとすぐにゲートを閉めた。立臼さんは、引き揚げようと消防 車に乗り込んだとき、背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いたという。普代川を逆流してきた津波が防潮林をなぎ倒し、水門に押し寄せてくる 音だった。消防車のアクセルを踏み込み、かろうじて難を逃れた。
漁港は大きな被害を受けたものの、防潮堤に守られた村中心部は無傷。津波は普代川をさかのぼり水門を越えたが、住宅地や小中学校までは及ばず、河原の木々が倒れた程度だった。
立臼さんは「水門で9割方の水は止まり、流れ込んだ波も強い雨が降った程度ですんだ。もし水門が10メートルしかなかったら被害の多かったほかの地区と同じように壊滅していたかもしれません」と振り返る。
以上、引用終わり
以下、引用開始
岩手県普代村の奇跡 3000人の村の堤防があの津波をはね返した 2011年3月31日 ゲンダイネット
これが公共事業だ 死者ゼロ、住宅の被害もなし
「高台から見ていましたが、津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、漁船や加工工場を一気にのみ込みました。バリバリという激しい音がして、防潮堤に激突。 みな祈るように見ていましたが、波は1メートルほど乗り越えただけで、約1000世帯が住む集落までは来ませんでした」(普代村漁協・太田則彦氏)
津波が来る前に、港に船を見に行った男性が行方不明になっているが、防潮堤の内側にいた人の被害はゼロ。住宅への被害も一切なかった。高さ15.5メー トル、全長130メートルの「防潮堤」が、村人の命を救ったのだ。村の北側には、同じ高さの水門(全長200メートル)があるが、こちらも川を勢いよく 上ってきた津波をほぼはね返し、小学校を守ったという。
普代村の隣、田野畑村(人口約4000人)には、高さ8メートルの防潮堤が2つあるが、津波を抑えられず、死者・行方不明者40人、全半壊533戸の被害が出ている。“高さ15.5メートル”の防御力は絶大だが、なぜ普代村に2つも造られたのか?
「防潮堤は1970年に約6000万円(当時)をかけて造った。水門は35億円(同)で、84年に完成しました。普代村は1896年の明治三陸大津波で 1010人の死者・行方不明者が出た。1933年の津波でも約600人が死傷しました。戦後、和村幸徳村長が『2度あることは3度あってはいかん』と県に ひたすらお願いし、建設の運びとなった。かなりの費用がかかるので、当時は『他のことに使えばいいのに』『ここまでの高さは必要なの?』といった批判もた くさん受けましたよ(苦笑)。きっと今は天国でホッとされているのではないでしょうか」(村役場住民課・三船雄三氏)
村ではボロボロに壊れた漁港や養殖場の修復作業が進められているが、一方で、堤防に手を合わせたり、故・和村村長の墓に線香を供える人が絶えないという。










